Lingo Institute 20周年記念ストーリー② リンゴインスティテュートが目指した金沢の団体

前回、金沢にて、(素晴らしいスイスのローザンヌ工科大学院生のおかげで!)無事に日本語教師デビューを果たしたところまでお話しました。その後に待ち構えていた試練のお話をする前に、私が所属していた団体についてお話させて下さい。なぜならリンゴ•インスティテュートを創る際に目指していたのが正にその団体の姿そのものだったからです。

「金沢を世界へひらく市民の会」という長い名前のその団体は、外国人への日本語指導等を通じ、地域の国際化を進める草の根国際交流団体でした。1981年にはサントリー地域文化賞を受賞。会についての内容や歩みがコンパクトにまとまっていますので、サントリー文化財団のHPに掲載された活動詳細を転載させて頂きます。⬇️

日本語学習のために
世界から金沢へ

 日本の伝統文化を今なお色濃く残す加賀百万石の城下町金沢。1977年、この金沢に「世界へひらく」という地球的視野の市民の会が誕生した。新しい金沢の創造には、過去の伝統や遺産にしがみついているだけでなく、世界の広がりの中で金沢を見つめ直すことが大切だ。そのためには、東京を介することなく直接世界と交流し、異質文化との触れ合いを求めていこうというのが主旨である。

 発端は、アメリカ人女性ルース・スティーブンスさんが金沢の英文ガイドブックを作ろうとしたことにある。これに協力したメンバーが、金沢の国際化という同じ思いで結成したのがこの会。最初の事業は同女史の執筆したガイドブック『金沢―もう一面の日本』の刊行だが、外国人が書いたこの種の本としては、東京、京都、鎌倉に次いで4番目。これまでに、約2万部を売っており、ちょっとしたベストセラーとなった。

 また、和文と英文の対訳で構成した新聞「カナザワ・コミュニケ」では、金沢市民はもとより金沢を訪れた外国人へのインタビューや、海外からの寄稿など、内外の人たちの眼を通したユニークな日本文化論、金沢の将来像などが論じられている。「金沢を世界へひらく市民の会」は固定的な会員制度はとらず、「コミュニケ」の読者がすなわち会員であるという考えのオープンな市民の組織。編集などの実務は、会の実質的推進者である東京生まれの松田園子さんを中心に、10名のスタッフがあたっている。

 「コミュニケ」での日本語教師養成講座の提唱が土台となり、1983年から「外国人のための日本語講座」を開催。 日本の内外から国籍も異なる外国人が約1ヵ月間金沢市とその周辺で過し、日常生活を通し日本語を身につけるというこの企画は大変な人気を呼び、年間170人の受講者を集めた。そしてこのきっかけとなったのが、日本語の先生を求めるペルーの一女子学生の「コミュニケ」への投書であった。この声に応えて、教師になろうと考えた市民が100名以上も集まり、その後も「日本語学習は金沢で」という金沢の人達の意気込みが年々高まっていった。

 地方都市における国際化活動の一つの方向として、「市民の会」の活動は、伝統文化の都市金沢が自らを見つめ直す機運を生み、投じられた一石は各地に波紋を広げた。
(以上サントリー文化財団HPより)

そして1987年には国際交流基金の地球市民賞🌏も受賞。会の発足当時、実質的な会の推進者である松田園子事務局長は、東京から金沢へ嫁いで来たいわゆる”よそ者”で、”よそ者に金沢の何がわかるのか”と陰口を叩かれたとも聞いています。よそ者だったからこそ発見できた金沢の魅力を松田氏の行動力で世界へ発信した事により現在の金沢が在ると言っても過言では無いと私は信じています。この会に、そして松田氏に出会えた事は本当に私にとって大きな意味があります。

さて、次回はいよいよ私に訪れた試練とそのおかげで得られた大きなチャンスについてお話しさせて頂きます🌿